昭和4年、未開のこの地、養老牛原野に全国より、約百戸に近い人たちが、大望を抱いて入植して来た。あれから早くも80年の歳月が流れ去った。一口に「80年」と言うが、長くて気が遠くなるような時間ではないだろうか。今、過去を振り返ってみると、あっという間とはいわないまでも、つい20―3年くらい前の
ように蘇(よみがえ)ってくるのはわたしだけだろうか。
 現在、その当時に記憶をとどめ知る人は、十指を欠くのではないだろうか。ともに80年暮らして来た人たちが、次々と消え去っていく寂しさと、ご苦労さんという気持ち、そして心より未開地の開拓の辛苦の労を共々ねぎらい合いたいと祈っている。
 入植当時、私たちほとんどの子どもたちは、小学校6年の義務教育を終わると家業の手伝いをして、家庭の経済の手助けをすることが一般的な習わしのようになっていた。年齢的にも、技術的にも社会雇用には適応できなかったこともあっただろう。
 少年でも、雇用先があれば進んで出稼ぎに従事した。仕事は、国営、営林署の仕事であった。作業内容は、植樹、下草刈、火防線の設置作業など、夏期間は一年中の雇用が絶えることはなかった。少年の年齢は、中学生くらいの年齢であった。身長も四尺五寸に満たない者もいた。雇用の給金も、大人が1円から1円5銭だった時に、私たちは65銭から70銭くらいだったと記憶している。
 また、一方少女たちも小学校を卒業して、わずか13、14歳でまだ、幼顔残るあどけない容姿だったが、健気にも家業に専念していた。
 当時、冷害にあえぐ苦境の極限の中、この山深い集落にも、優しい愛の女神は、少年、少女たちに青春の喜びをお恵みくださった。
 少女たちは、路傍の咲き乱れる美しい花のように、咲き競っていた。誰に見せるのか一輪の草花を頭髪に飾り、嬉々(きき)として喜び、戯れる光景がいまだに、わたしの瞼に残っている。
 あれから80年の歳月が流れ去った。あの美しい頭髪もすっかり白髪に変わり果て、あの初々しい笑顔にも無数の皺(しわ)が走っている。この容姿こそ人間の成熟した姿であり、輝く勲章ではないだろうか。
 また、入植時に思い出すのは、駅番を委託経営されていられた西村武重さんと、指導農家として入植された、中西徳太郎さんの存在は、誠に大きかったと思う。
 中西さんには、北海道の農業は、「皆様は初めてのこと」と馬耕、種蒔、収穫、農業の心得など、一人一人に親切にご指導をしてくださった。わたしは非常に勉強になったと思う。
 また、非常に有識者であり、優れた指導者であった、西村さんは部落の中軸となった。青年団を結成、部落組織体制の確立に努力されて、さらに学校やその周辺、校庭の整備、神社建立、お寺も誘致された。また、市街周辺の美化運動に、献身的に奔走されたのであった。
 さらに、西村さんは林業関係にも尽力されていて、営林署の植林事業の指導にも当たられていた。当時、部落には畜産収入は皆無、農業収入も皆無に等しい、そんな時、営林署の林業事業の人夫として働き、金銭収入の道が開かれたことに、部落の人たちは強い喜びを感じていたと思われる。
 酪農振興に強い原動力となって活躍した田中利夫さんを中心とする、若い酪農家に情熱を抱く闘志によって結成した「明日を築く会」は、当時の酪農発展に大きく貢献されたことと、高く評価できるとわたしは思っている。
 明日を築く会の事業として、乳牛の改良、部落の活性化、毎年行われる勤労感謝祭運動会、牛祭り、牛の品評会など、その活躍ぶりは他地域にも、大きく影響を及ぼした。
 明日を築く会の活動は誇れるだろう。養老牛は、本町より桜の開花が4、5日も遅れていて、計根別より草の生育が遅れている、といわれている。最北の寒冷地である。また、へき地でもある。ゆえに部落は、固い結束が芽生えたのだろう。長年続いてきた、明日を築く会が、今、なお、継承されていることに心強さを覚えている。
 入植80年を迎え、今、部落の人の9割が、生粋の道産子となった。移住してきた者はわずかで、約1割となった。寂しい限りである。北西に半円形に大きく広がる標津岳連峰の美しい景色を、何気なく朝な夕なに仰ぎ見てるうちに、80年の歳月は流れ去った、何か夢を見ているようである。
 昨年は、わたしには意義のある年となった。入植して80年を迎えて、残り少ない入植者として、今は亡き先駆者に心から賛美の言葉を贈るものである。
 最後に養老牛のますますの弥栄を祈る。
(2009年発行自分史「新天地を求めて」より抜粋)

お祭りで鳥居のそばに集まってきたと思われる人たち
井野孝さん(養老牛)提供


釧路新聞掲載
・養老牛入植80年 【1】→【2】→【3】→【4】→【5】【6】
更新日:2011年 10月 26日 水曜日



北海道中標津町養老牛