昭和18年ころのことである。戦争も長期化が予想されていた。私も在郷軍人の本分である防衛隊員として、銃後の守りに専念していた。
 そんな中、中標津農業会の伊藤精一さんの東部農民道場に入場する推薦を受けた。応募した場所は北見置戸で置戸農業実習場内に併設して開場された。もちろん第一期生であった。
 道場生は、道東地区より二十数名の純農村青年が応募していた。私も手続きを終わって、北見置戸に行き、各地より集まった人たちと合流した。事務所で簡単な面接を終えて、道場生、25名をもって、2班で班編成が出来上がった。実習生は1班から5班まで、6、7班が道場生ということで、置戸実習場は一挙に150名に近い大所帯に膨れ上がってしまった。
 道場生の内務の内容も、大体が実習生と同様であったが、週2、3回、精神講義の受講が義務付けられていた。教育方針の中で、晴耕雨読が基本とされていた。だが戦時下のことだけに、軍事訓練だけは決して疎かにすることはなかった。教練に当たっては、職業軍人が派遣された指導であった。農民道場生の教育法は農民精神の昂揚こうようが目標とされていて、二宮尊徳先生の教訓に従い、質素・勤勉が強調されていた。
 燕麦(えんばく)飯を食って、朝に星を戴き、夕べに星を仰ぐ毎日であった。いつの時代にも健康と勤勉は人生の宝である。目標は現代産業要素をもって、近代農業を体得することであった。場内の生活様式は軍隊同様で、すべてに規則正しく厳しかった。私は苦にはならなかった。
 作業要領は、各班ごと、また個人ごとで責任を重んじるためか、競争力を養うためか、負けじ魂を養成するためか、常にノルマ式の作業計画であった。毎日が正確な作業の成果が仕組まれていた。それは精神的、肉体的の鍛錬と修養を目標としていたからだろう。場内には、当時としては非常に完備された牛舎、その他家畜舎、作業場が数棟建っていた。また先生方の住宅、生徒たちの住舎、食堂、講堂と見渡す限り続く建物は、ちょっとした村落を思わせた。
 乳牛だけでも150頭ほどはいただろう。それに、種牛、育成牛と相当数の牛が飼育されていた。その飼育作業には、実習生が先生を交えて各部署に就労していた。
 処理された乳牛は、一部市販されていた。バターの製造もして、どこかに納品していた。機動力のない時代だけに、馬が30〜40頭いて、農作業、運搬など、現在の自動車やトラクターのような存在であった。そのほか、ぶた、めん羊、養鶏、そして家禽きん類も飼育され教材の資料ともされていた。
 工作部門の研修は、将来農業を経営していく上で必須条件であった。それは農業経営の上で、ちょっとした農機具の故障や破損などは、自分で修理ができなければならない。それは経営上、経費の節減の基本となるからであった。工作技術の使役には、道場生は進んで就労し、工作技
術の習得に努めた。
 実習生は1、2年の実習が終わり、その代償として、国から数十町歩の未開地を無償で貸与された。その5割以上の開拓ができれば賦与(ふよ)されて自分の所有地になる仕組みになっていた。これは農家の二、三男の農業を希望する者への就農対策であったのだろう。
 私はせっかく農民道場に入場し、その成果を見ることなく、わずか3カ月で病気で退場した。道場、召集、敗戦、終戦と、2、3カ月のうちに世の中は一変した。私は何もかもすべてを失ってしまったが、私は生来酪農で生きる決意をした。その時、身も心も晴れ晴れして、限りない希望と夢が広がるのであった。
 まず土地の確保が急務となった。各所にあった離農跡地もあっという間に埋まってしまったが、思わぬ朗報が入った。しかも「灯台下暗し」であった。
 その土地は、養老牛の西方に位置し、緩やかに南面する丘陵が続く場所であった。元の地主は、計根別の成田正美さんの所有地であった。成田さんは、「事ある時は、自分で農場を夢見て探し求めていた」と、言っていた。土地の面積は二十町歩であった。成田さんが私のたってのお願いに、やむなく譲ってくださったことに感謝している。
 緩やかに南面した傾斜面には、クマさんたちの「竪穴式住居跡」が無数に点在していた。鬱蒼(うっそう)と生い茂る樹林の中には、山ぶどうやコクワが撓(たわわ)に実っていた。また、種々の山菜の宝庫であった。クマさんたちが住み易やすい環境ならば、人も住み易いことだろう。
 昭和21年4月、それは私にとって第二の人生の黎明(れいめい)であった。
 時、私27歳、妻23歳、長男1歳 入植を印す。

当時の酪農の様子が分かる1枚
井野孝さん(養老牛)提供


年表(その4
昭和46年
町有バス養老牛線運行開始。
昭和47年
養老牛地域集団化 自動電話工事完成。
昭和48年
養老牛神社本殿鳥居建立。
昭和49年
養老牛酪農振興会設立。養老牛生乳乳量5000トン突破記念祝賀会開催。
昭和50年
大規模ふ化場が養老牛に完成。
昭和52年
養老牛神社拝殿建立。
昭和55年
養老牛地区出荷乳量1万トン達成。
昭和60年
養老牛郵便局閉局。
昭和63年
開基60周年記念式典挙行。
平成4年
ゲートボール場完成。
平成10年
開基開校70周年記念式典挙行
(1999年発行「養老牛 栄光の70年」より)
釧路新聞掲載
・養老牛入植80年 【1】→【2】→【3】→【4】→【5】【6】
更新日:2011年 10月 26日 水曜日



北海道中標津町養老牛