昭和7、8年の強烈な冷害による大凶作に根室原野の畑作農業に終止符を打って、寒冷地に適応した有畜農業に切り替えた道庁の指導方針は誠に賢明であった。
 道庁は思いきった政策で、補助耕馬として高額の補助金を交付してくれた。また、乳牛については5割とか8割補助で導入してくれた。その他に子返方法などで急速な増産対策がとられていった。
 殺伐とした原野に長閑な牛の鳴き声、あのかわいい姿を見るようになってきた。まさに酪農の産声である。少年の私にもあまりに急速な酪農の実現に、大きな夢と希望がいやが上にもわき上がってきていた。各地方から入植してきた人も、この日を夢見ていたことだろう。「男子志しを立てて郷関を出ず 農若し成らずんば死すとも帰らず」という決意が、また、優れた英知と行動によるものだと私は感動した。
 このような急速な酪農の発展の陰には、多くの指導者の力があったことを決して忘れることはできない。当時、酪農の指導者でもあり経営者であり、まさに酪農の先駆者であった亀子卓氏の存在は非常に大きく、その功績は高く評価されていた。その表れとして計根別の公民館前に氏の偉大さを讃えて、顕彰の碑が建立され、知名度の高さを物語っている。
 酪農の経営者でもあった氏は、そのころ、八雲から数十頭のホルスタイン種の乳牛を導入し、多くの同志と共に製酪組合を設立して、牛乳の生産、販売をしていた。
 私の知った時には、自分の牛舎の一室に計根別簡易集乳所の看板を立て、本別、大成、上標津、養老牛など二十数戸の農家の牛乳を買い入れてくれていた。現金収入のない時だけに、集乳所は活気にあふれていた。そんなことが刺激になったのか、乳牛も増加し、また、飼育する人も急速に増加した。時を待たずにして雪印乳業が各地に集乳所を開設した。
 昭和9年か10年だったろうか。私はまだ16歳の少年だったが、当時を思い出してみると、当地に二度目の補助牛が配当されたことがあった。まだ汽車のない時で、その牛を受け取りに標茶まで歩いて何人かで行ったが、その中でも中西利夫さんと味元正美さんだけは今でも覚えている。津別から来た18ヶ月未満の若牛二十数頭だった。その日は草と水のある多和の山中で野宿した。もう今では私一人だけが生き残っており、懐かしいような、寂しいような気持ちである。
 順調に拡大していた酪農も、日支戦の影響で一時不振に陥ったようでもあった。多頭化経営の前提条件として、草地増成と農村電化が必要となったが、その難関を乗り越えなければならないことは、案外誰も考えなかったようである。
 終戦後になって、国の事業で酪農構造改善事業によってあらゆる障害を克服して、現在の酪農経営が達成されたのである。その強力な酪農理解者の一人に中川一郎という政治家がいた。それは先生が農林政務次官当時のことであった。乳価の補助金制度を設立して、牛乳代金が補助金を加算して、一挙に乳代の手取り金額が2倍半に高騰したことがあった。一時的なこととはいえ、酪農家の喜びはとどまるところを知らなかった。その後、乳価は永久に据え置きとなってしまった。一挙の高騰は決してよいとばかりはいえないが、これを機に多くの生産者は、酪農に大きな夢と自信を持つ事ができたと思う。こんなこともあって先生に強い信頼感を持つようになった。
 中川先生は大正14年、十勝管内広尾町の開拓農家に生まれ、同22年に九州大学を卒業した。同26年、北海道開発庁が新設され、中川先生は同庁に入り、開発担当官としてその職を全うされた。同30年に当時の北海道開発長官大野伴睦先生の秘書官となり、やがて自由民主党大野副総裁から、その素質を見込まれて自ら政界入りを決意した。昭和38年、第30回衆議院議員総選挙が行われるや、北海道五区から勇躍立候補した。中川先生は道東地方の後進性を脱皮させて、明るく豊かな郷土を作り上げることを強く訴え、特に酪農には思い切った改革政策を約束され、見事に初当選を果たすことができた。
 昭和58年1月9日、56歳の若さで、いかに運命のいたずらとは言え、思わぬ非業の最期を遂げられた。突然の訃報に氏の人柄を慕う五区の応援者、十数万人の有権者の悲しみと落胆は言語に絶するのであった。庶民の英雄中川先生の急逝の原因はどうあれ真実一路、疾風怒濤の如く駆け抜けた一世の快男子であった。
 以前、ある有名な講師の講演で、将来の酪農の姿は想像以上の改革、改良、労働力の省力化が期待されるだろう。しかし、搾乳は動物であるから、ミルカー搾乳以上の機械はできないだろうと言明された。私もそうだろうと思っていた。
 だが最近、すでに同地域でもロボット搾乳が行われている。私はただただ驚嘆するばかりである。人間の英知はどこまで続くのだろうか。長生きしたいものである。

入植当時は手作業での搾乳
井野孝さん(養老牛)提供


年表(その3
昭和31年
冷害凶作。
同32年
計根別〜養老牛御円間バス運行開始。明治乳業が養老牛に進出。冷害凶作。
同33年
牛乳個人別庭先集荷開始。
同34年
電気導入送電点灯。
同37年
殖民軌道養老牛線廃止。
同39年
冷害凶作。
同40年
養老牛牛乳1万石突破記念祝賀会開催。
同41年
町営養老牛牧野完成。乳牛感謝之碑建立。
同42年
養老牛老人クラブ(天寿会)結成。
同43年
養老牛老人クラブ完成。
(1999年発行「養老牛 栄光の70年」より)
釧路新聞掲載
・養老牛入植80年 【1】→【2】→【3】→【4】→【5】【6】
更新日:2011年 10月 26日 水曜日



北海道中標津町養老牛