昭和4年、わたしが小学校5年生のことである。入植して1カ月を経て5月になった。わたしの部落でも、それぞれ3戸くらいで共同で畑耕し、馬耕も始まるらしい。火入れをしなければという話も出ていた。
 そんなある日のこと、家の西方500メートルほどの地点に火の手が上がった。わたしは隣の人を呼びに走った。隣近所の人もびっくりして駆け付けてくれた。わたしは初めて見る山火事に動揺して、ただうろたえるばかりであった。集まって来た人たちは相談を始めた。「家の裏は川になっているから、前面を防備すれば良いだろう」ということになった。
 取りあえず住宅の類焼を妨げなければならない。全員で素早く火防線を切って、迎え火を放った。勢いに乗っている元火と迎え火が衝突する瞬間、突然強い風が起きた。炎の高さは3、4メートルにも達した。火災は天に柱をなし、すさまじい光景であった。幸い住宅は類焼を免れて無事であった。
 本来火入れは、営林署の指示を受けて許可が必要となっていた。だがこのころは、山火事を自然環境保護の上で責任の重大さを認識していなかった。自分の住宅を守ることは、当然一番大切であったからである。その理由のほかに、山火事が起きたことを利用して、自分の開墾地の火入れを有利にしていたのであった。
 開墾するには火入れは絶対に必要であった。一度山火事が発生しても、誰の不始末だとか詮議(せんぎ)されることもなかったので、火事が近づいてくると、消火するふりをして、ついでに自分の山も焼いてもらっていたとも聞く。しかしそれも一年ほどで、営林署の行政指導が厳しくなり、山火事の条例もできて、資源が保護されるようになった。
 入植後、住宅を造り、一応定住したということで、入植助成金300円、住宅助成金とを合わせて350円を道庁から支給されたと聞いた。中には入植助成金を前借りする人も多かったそうだ。入植した当初は、農業外収入は皆無に等しく、開墾をした開墾助成金を受けることが唯一の金銭収入であった。国でも一人でも多くの人たちに入植を定着させる方針であったらしい。開墾も馬耕屋さんに頼むと、手取りの金が少なくなるので、それぞれが馬を買い、共同で畑耕する人も増えてきた。慣れない馬耕に皆が苦労したようであった。プラオを持つ人、馭者(ぎょしゃ)取り、3頭曳(ひき)馬耕にも慣れてきて、一日、5、6反を耕せるようになった。各戸で2町5反から3町歩の春耕しができた。さらに秋耕しもやることになる。馬と馬具を買い、それに農具と経費も相当にかかるだろうが、将来の貴重な財産となって残ると思えば、思い切ってやらざるを得なかった。
 畑耕しもそこそこに、一日も早く作付けして食糧の確保をしなければならない。新墾地は根菜類はできない。取り敢えず蕎麦(そば)を蒔(ま)き付けた。その年は天候が良くて1年分の食糧が確保できた。
 翌年は2年地となる。根菜類、馬鈴薯(ばれいしょ)の作付けが可能となる。農業指導農家の中西徳太郎さんの、「主食になる馬鈴薯が採れるようになれば、もう大丈夫だ」との言葉を、私は今でもはっきり覚えている。あの時、あの人の言葉で、「北海道で農業で生きられるんだ」という自信と希望を持つことができたし、この言葉が人生訓ともなった。
 入植して2、3年は蕎麦と馬鈴薯が主食であった。蕎麦は自分の家で臼で挽(ひ)いて製粉した。しかし要領が悪いので、蕎麦の皮が混じって真っ黒になり、口触りが悪かった。それでもおいしかった。今では犬も食わないだろう。
 お米のご飯は、正月とお盆、それに何かあった時、病気に罹った時だけである。それ以外は食べることは無かった。
 学校の弁当作りは至って簡単だった。蕎麦粉を水で練り、塩少々と煮豆を入れてストーブの上に流し焼きをした。それをひっくり返せば出来上がるという、誰にでもできる料理であった。
 蕎麦焼きの弁当を持参する生徒は全員とまではいえないものの、ほとんどであった。非農家の生徒で2、3人の子どもが、お米の弁当を持って来た。だが何か遠慮しているようで、食べているところをあまり見たことがなかった。後で聞いた話だと、その子どもの中には、「僕も蕎麦焼き弁当を持って行きたい」と、親を困らせる者もいたそうだ。今では笑い話にもならないだろう。そのうちに生徒の中で弁当を持参しない者が増加して、冬季だけでも、と学校給食が始められた。子どもも大人も同じ物を食べることで、楽しい共同生活ができるのではないだろうか。
(2009年発行「自分史 新天地を求めて」より抜粋)

開墾に馬は欠かせない=井野孝さん(養老牛)提供


年表(その1
昭和4年
本州より99戸、道内より1戸入植。字名が「養老牛」となる。養老牛特別教授所が開校。
同7年
晩霜(6月29日)。大凶作で転出多数。
同8年
大暴雪により児童4人凍死。
同10年
北海道製酪販売組合連合会養老牛集乳所開設。養老牛酪農振興会設立。
同11年
標茶〜計根別間鉄道開通。
同13年
殖民軌道計根別〜養老牛(12キロ)開通。
同14年
養老牛郵便物取扱所開設。
同18年
養老牛駅逓廃止。
(1999年発行「養老牛 栄光の70年」より)

釧路新聞掲載
・養老牛入植80年 【1】→【2】→【3】→【4】→【5】【6】
更新日:2011年 10月 26日 水曜日



北海道中標津町養老牛