(History) 幾多の辛苦を越えて…ある開拓者の述懐
この文章は養老牛開拓の祖 故西村武重氏の子息西村如矢氏の監修のもと史実にもとづきながら架空の家族を主人公とした物語です。
養老牛酪農郷―プロローグー
 
昭和4年3月20日夜、まだ雪深い標茶駅に到着。妻と子供二人を連れ、故郷を遠く離れて3日間列車に揺られっぱなしであった。翌朝馬橇と徒歩で養老牛に向かう。“養老牛…私たち家族にとって希望の大地である。一戸あたり350円の奨励金と、10町歩の土地を無償貸与され5年で8割開墾すれば土地は自分のものになるという北海道庁のポスターに心躍ったものだ。当時は日本中が不景気の只中で、関東大震災以降被災者の救済と食糧増産の機運が高まる中、北海道開拓は国策でもあったのだ。
 とりあえず入植地が決まり、まずは敷地内の小川のそばに、中心街の共同小屋から通いで掘っ立て小屋を作った。養老牛の中心街は中川商店という店があり、日用品はたいがいそろった。学校もすぐ開校し、拓殖医という医者も配置されており、移民を受け入れる体制は、ほぼできていたのである。
 この3月に養老牛に入植した戸数全98戸(翌5年入植35戸、6年入植11戸)。新しい開拓地は次から次へやってくる移民たちの活気で溢れていた…

養老牛酪農郷―斧と鍬の日々―
 雪解けと共に、斧と鍬を担いでの開墾がはじまった。まず森深くに入り込み白樺、ハンノキ、ナラ等を切り倒し細分したものを一箇所に集めて焼却する。次に笹を刈って乾燥させ焼き払い、そこを鍬を下ろして耕していくのだ。朝から晩まで体を酷使しても半反(150坪)が限界であった。耕した場所には馬鈴薯、そば、麦の種をまいた。開拓者によっては馬耕起を始めるものもいたが、殆どの人が自分の体一つで開墾していったのである。初年度に開墾した土地は2町歩弱であった。10町歩の開墾が遠い夢のようだった。樹海の中のネコの額の土地であるから収量はたかが知れているが、それでも秋にはみんなで、始めての収穫を喜ぶことができた。

―憔悴と錯乱―
 あれは、忘れもしない昭和7年6月29日のこと。麦も馬鈴薯もすくすくと育ち始めた頃…時期はずれの冷気に目を覚まされ、畑に走ると慄然とした。土が霜で真っ白!一夜にして全ての作物は死滅していた。前年もその前の年も寒さにやられたが、この年は凶作などと言うものではない。一切が無に帰したのだから…家族の絶望感は大きく、周りの多くがこの地に失望しこの地を離れることとなった。なんと144戸あった農家はわずか3年で、75戸までに激減したのである。ある程度の財産をもったものなら、他の地へも行けるが、私たち家族には、苦しくともここに残る事以外に残された道はなかった。昭和8年を迎えてすぐの1月18日のことだ。朝晴れて、子供を学校に出し、昼過ぎから雪が降り出し、下校の頃には猛吹雪になっていった。馬橇で子供を迎えにいったが、学校に着くとどうやら、わが子が掃除当番だったらしく学校近くの市街地の子供たちが当番の代わりを引き受けてくれた。呼吸もできないような中、どうにか家にたどり着いたが、今にも家ごと飛ばされそうで、ストーブも着けれずに家族で固まって夜をやり過ごした。室内には粉雪が2センチほど積もっていた。
養老牛酪農郷  翌朝、市街から“子供7人が遭難した”との伝言があり、120人ほどで捜索を行った。駅逓の西村さんの4年生になる娘さんも犠牲になった。わが子の掃除当番を代わってくれた市街の子4人のうち3人が学校の校庭や、とんでもない所まで飛ばされ窒息状態で凍り付いていた(大石ツルさんだけが中川商店に逃げ込んだ)。市街と学校の距離わずか60mの間で起きた惨事に誰も言葉を失い、小さな亡がらに嗚咽した。昨夜吹雪の中、駅逓と学校の間を声を枯らして数十回も往復した西村さんは、ただの脱け殻になっていた。他に農家の子3人が立ち往生する馬橇の上で抱き合いながら夜を過ごしたが、一人が死に、一人は全身凍傷の大重体を負った。この悪魔のような猛吹雪は武佐や開陽でも犠牲者を出したが4人もの命を奪われたのは、養老牛地域だけであった。この大惨事は、冷害による貧食に精神的な追い討ちをかけた。養老牛に移住しわずか4年。“本当にこの地で私たちは生きていけるのだろうか?”我が家だけでなく多くの人が錯乱に近い自問自答を繰り返した…“養老牛よ!!!”
―悲劇のあとの希望―
昭和8年冬の悲劇を経て、その春に養老牛を離れる者は後を絶たなかった。旅立つ者たちの顔は、一様に諦めによる自嘲と疲労感に満ちていた。
皮肉なものである。前年の大冷害により、北海道庁長官佐上信一が凶作被災者に対する食糧給与や救農土木事業などの手を打ち、昭和8年から始まる根室原野農業開発5カ年計画を実行に移すことを決めた矢先に起きた地域の惨劇だったのである。
ところでこの5カ年計画であるが、最大の特徴は、畑作から畜産業への転換の奨励にあった。この厳しい自然環境下での畑作は困難であるという判断と、根室地域を計画的な一大畜産地帯に作り上げたいという意図が働いたものである。
この計画が、養老牛のみならず、疲弊しきった根室地方全ての農家に僅かばかりの希望をいだかせたのは間違いなかった。
―産業構造の変化―
昭和9年、私たち家族の農場(10町歩開墾し晴れて私有地)は8割補助で購入した牛1頭と馬2頭を有し、土地は僅かの牧畜用地と、馬鈴薯とそばの作付を行っていた。馬は耕起用の他、のちに西春別にある陸軍師団に軍馬用として販売したりした。
牛乳は隔日で計根別までの12Kの道のりを馬車や橇で運んだ。雪解けの時期のぬかるんだ道で立ち往生し家に帰ることもできないこともあり、翌年養老牛に集乳所ができ13年に計根別までの殖民軌道ができた時は、まさに隔世の感であった。牛乳の集荷の便がよくなることで、この地域の主畜農業化は一層すすむことになった。馬鈴薯の作付は減少し、この地域に早くから建てられた澱粉工場も経営を縮小することとなるのであった。
―戦争の影―
昭和12年の日華事変以来、国は国防色を強めることとなる。昭和16年の学制改革で尋常小学校は養老牛国民学校と改称され、教科学習を投げ打って軍事教練が行われるようになった。女たちは国防婦人会を結成し銃後の体制を築いていった。
(次回更新時に続く)



昭和4〜6年養老牛入植者配置図


すべてはおいしい牛乳のために…
ファームライフ
養老牛地域は現在40戸の酪農家が営農しています。
(酪農家の一日)
酪農家は皆、早寝早起き!365日搾乳はありますが、昼はゆったりすごすことが多いです。
一例
AM4:30
起床
AM5:00
朝仕事開始
搾乳〜餌やり作業〜牛舎清掃〜哺乳、育成牛の世話
AM9:00
休憩、繁殖管理、季節作業、機械メンテナンス等
PM3:30
夕方仕事開始
餌やり作業〜哺乳、育成牛の世話〜搾乳〜牛舎清掃
PM7:00
終了
PM9:30
就寝
酪農家の一日
(酪農家の一年〜季節作業)
おいしい牛乳は豊かな土づくり草づくりから生まれます。酪農家は一年を通じ、大地と語らい、格闘しています!
一例
1〜3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
除雪作業
放牧地整備
草地肥料まき、種まき作業、放牧開始
収穫作業(一番草)
草地肥料まき
麦稈(寝藁)収穫
収穫作業(二番草)
堆肥まき、放牧終了
土壌改良
冬支度

リンク
◆田中牧場(ロッキーファーム) http://www7.ocn.ne.jp/~rocky/
◆計根別農業協同組合(JA計根別) http://www.ja-kenebetsu.com/
◆別海町酪農研修牧場 http://dairy-farm.net/
◆中標津町農業協同組合(JA中標津) http://www.ja-nakashibetsu.or.jp/




北海道中標津町養老牛